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スペイン語独学継続を妨害する史上最強の敵
語学にも独学にもかぎったことではなく何に関してもそうだろうけど、もれなく言語学習においても、どんなに継続が命、モチベーション維持の工夫が大事、〇〇学習法が最高、などといろいろ言ってみても、結局、
気持ちがついてこないことにはどうしようもない
という面があります。
そもそも気持ちがついてこないと、ただやるだけでは不十分でほどほどに積極性が求められる“学ぶ”という行為に注ぎ込むのに必要な莫大なエネルギーが湧いてきません。
そのエネルギーがなければ、例えば、必要な時間を割く努力もできない、仮に時間があってもやる気が湧かない、学習を優先するために何かを犠牲にしたりする気が起きない、などと、ただでさえ他にやることが山盛りある日々の生活では、なかなかに厳しい状況に陥ります。
そして、そんな言語学習継続を遠慮なく阻む“気持ちがついてこない”現象を生む引き金となるであろう“敵”はもはや数えきれなほど存在します。実際、自分もいままでたくさん出会ってきました。
時間的経済的精神的余裕がないはっきりいってそんな場合じゃない。などなど、もういろいろあるに違いないのですが、ここではそういう現実と切り離して考えること自体が困難なのは百も承知の上で、それでも、気持ち面や気分面だけに焦点を絞って考えてみようと思います。
“敵”(気持ち面)各種例:
モチベーション低下飽き怠け注意散漫心易きに流れる傾向興味喪失行き詰まり感意味喪失覚醒して馬鹿らしくなること精神的危機ネガティブ思考落胆絶望内向的性格口下手人見知り自意識過剰能力過信傲慢おごり調子乗って油断不器用さ危機感のなさ甘え孤独向上心不足自分をだましだましやっていく能力不足自分を信用する能力不足緊急性必要性不在悪魔のささやきやめたい気持ちなげやりな気分気力低下生きる気力すら喪失
・・・などなどと、挙げ出すときりがありません。
でも、これらすべての根元にあるもの、というか、これらすべてを一言でまとめたものともいえるかもしれない、最大にして最強の敵はこれなのではないか、と最近やっと自分の中で勝手に確定したものがあります。
これ↓↓
『なんか憂鬱な気分』
最高にぼんやりしたものです。
でも、ぼんやりしてるからといって軽視すると大けがします。なんてたって史上最強の敵です。自分の中では。
ある程度、学習のリズムに波があるのは当然ですが、それとはちょっと違う雰囲気のたびたび訪れる「なんか乗れない」感じというものがあります。
そんな「なんか乗れない」真っ最中のある時、なんで気持ちがついてこないんだろう?と遠くから自分を眺めてみたら、じんわりと憂鬱な気分が充満していることに気づきました。
憂鬱のエキスパートでもないから専門的なことはわからないけど、まず、少なくとも自分の場合は、憂鬱な時にはどんなものも助けになりません。
- 憂鬱は無気力を生む
- 憂鬱な時にはなんのごまかしも効かない
- 憂鬱な時は完全ガード状態になり、何も入ってこないし自分のためになるかもしれないことすらどうでもいい。
という、憂鬱最強、の悪循環ループ状態に入ってしまうようです。
そして、この憂鬱を晴らすための万人に共通して効果のある方法なんてものも知りません。個人的にもいままで、時の流れが解決してくれるのをじっと待つ作戦でかわしてきました。
でも最近、ここで唯一助けになるものがあるとしたら、それは、だれかの励ましやどんな秀逸な気の逸らし方やごまかし紛らわしの技でもなく、なんでこんなに憂鬱になるのかの原因の究明だ、という結論に個人的には至った次第です。
そして、究明の結果:
『なんか憂鬱な気分』の根元いろいろ↓↓
*【casi拷問】興味がないテーマについて深く掘下げなければならない『味気なさ』
この『味気なさ』こそはもう、ほんとうのところ、一番の越え所なのかもしれません。
実際、興味のないことに時間や労力を注がなければいけない味気ない状況なんて、人間活動や社会生活の中では日常茶飯事、と呼べることなのかもしれません。
とはいえ、なんにおいてもどんな分野においても、
- 興味や好奇心や知りたいという気持ちの欠如
- 魂がこもってないこと
の致命的さや破壊力や有害ぶりは明らかです。
この『味気なさ』が、すべての人間の行動や思考を鈍らし、なにかをするための原動力にブレーキをかけるものとなります。
かくいう語学学習界も例外ではありません。語学学習全般的に言えることなのかもしれませんが、特に検定のための勉強における“自分の興味のかけらもないことに関して考えを巡らせなければいけない、それも積極的に”という状況のきつさや酷さは格別だと個人的には感じます。
特に暗中模索感が半端ない独学での学習者は、モチベーション維持のための特効薬『はっきりくっきりとした成果』のうちのひとつである、語学検定のために勉強する学習者も多いはずなので、それゆえこの“味気なさ”に徐々に蝕まれてやられてしまう場合も多いのではないかと勝手に想像しています。
この、“自分の興味のかけらもないことに関して考えを巡らせなければいけない、それも積極的に”という状況や、又は、“伝えたいことがあったり話したいから話すのではなくて、まさに‘話す’ために‘話さ’なければいけない”というような状況は、軽視できないほどに独学者の貴重なやる気を削ぎ憂鬱にさせる点であると強く思います。
個人的には、拷問か、拷問なんか、
とすら感じることがあるのです。
魂の込めようのない自分のさらっさら興味のない内容について、読んだり、聴いたり、書いたり、話したりしなければいけないという拷問。
基本:
- 知りたいことがあるから、影響を受けたいから、読む・聴く。
- 伝えたいことがあるから脳からの指令で筆を執って書く。
- 伝えたいことがあるから脳からの指令で口を開いて話す。
というのが、人間のスムーズで自然な行動プロセスであると思われます。
それ反して、別に興味ないけどやらざるをえない状況にあるからやる、つまり、読むために読み、聴くために聴き、書くために書き、話すために話す、という徹底的に不自然な行動をしているわけであります。
そら、違和感がすごいはずです。
特に、書く話すの表現時の、いや心底どーっでもええわ、というようなことに考えを巡らせて掘り下げてそして挙句の果てにはそれについてまとめたり意見を述べなければいけないという拷問。
個人的には、話す、の時が特にしみじみとつらく、とても憂鬱になります。あとあと実となるかもしれなくても、取り組んでいてそこはかとなくむなしく感じることがあります。
話す、つまり、頭の中の言葉を発する、というところまでもっていくには、たくさん考えを巡らすという前段階のプロセスが避けられません。そこがまた拷問たらしめている点です。
それに、一番、興味がないのがばれてしまう場面でもあります。“いや心底どーっでもええわ”は、目の前の対話相手にそうそう簡単に隠し切れるものではありません。
だって心底、いや心底どーっでもええわって思ってしまってるから、そらそれはにじみ出てしまいます。そんな時、自分では気づかずに目が死んでるかもしれません。
なにはともあれ、ここらへんを突き詰め始めてしまうと、
“話す”ために話すのか
伝えたいことがあるから話すのか
なんていう、この場にそぐわない、物事の核心をつくような大きな話になってきてしまって収拾つかなくなるのですが、
話が大きく逸れてもうここに戻ってこれなくなるといけないので、
ここは無理やりグニャっと物事を曲げて軌道修正して、
話すために話しているのではない
「私はスペイン語で話せる」ということを目の前の人に伝えたいから話すのだ
という方向に持って行くのはどうでしょうか?
語学検定に限った話なのでありだと思います。または:
あたりの、あ、そうだそうだったそうだった、忘れてた、というどこまでも根本的なやつでカバーもあり。
そこまでいくと、なんでスペイン語能力向上したいのか、が始まるから、始めたい人は始めて、その後、最終的に、興味なくても取り組むしかないよ、に戻ってこれた人には、次の疑問が待ちうけています。
じゃあ、魂の込めようのない興味のないことに関しても積極的に取り組めるようにするにはどうしたらいいか?
ここで、一番手っ取り早い究極の方法として:
なんにでも興味をもてるような(過度に/病的に)好奇心旺盛な人になる
なんていう、人間革命を自分の中に起こすって感じのほぼファンタジーに近いのものがあるみたいなのですが、どうやって?というところは見当もつかないし、それが簡単にできたらさぞかし楽だろうよ、と文句もたれたくなるようなしろものでしかありません。
だから、
で強引にすべてを包み込むことにしました。
けっして嘘ではないので大丈夫。
ちなみに個人的感触としては、検定試験のレベルが上がっていけばいくほど、テーマは興味深いものになってくるように思います。同時に、あたりさわりのないものになってくる、ともいえます。
例えば、中級あたりまでだと、どこかの国のなにかのコンクールの話とか、ほんとどうでもいい内容のものが扱われることがあるけど、上級になってくるにつれ、もっと抽象的というか、言ってみれば、なんとでもいえるようなものが多くなってきます。例えば、幸福論とか。
逆に言うと、自分の考えや意見みたいなものや前知識が必要になってくる、とも取れるのですが、でもその下準備さえしてあれば楽になってくるようなテーマが上級になればなるほど多くなってきます。
また、いや心底どーっでもええわ、の対象テーマは、まったくもって人それぞれです。なので、それこそ、ぼんやりした幸福論などに考えを巡らせなければいけない状況を拷問だと感じる人ももちろんいるわけです。
*自分の性格を変えてまで取り組まないといけないという憂鬱
- ちょっと社会的なことに感化されてる風を装ったり、ちょっとオープンなふりをしたり。知的好奇心旺盛なふりをしたり。偽善者ぶったり。
- 生来口下手なのに、口が達者でおしゃべりなふりをしなければならない、雄弁でなければならないという憂鬱。
- 普段他人を説得する気も機会もない人が、さらには自分とはなんら関係のない事柄に関して、説得力のあることを書いたり言ったりの猿芝居に近いことをしなければならない憂鬱。
ここらへんも、鬱々ポイントです。
あとがき
もう、あー、そーか、そら憂鬱だわ、という明らかな話でした。
『物事を動かすのは知りたいという気持ち(=好奇心や興味)』
という法則に反していることをしているわけですから。
とにかく、こんなに初めから最後まで鬱々したことばかりで埋め尽くしても、憂鬱が晴れるわけではありませんが、ほんっとやりたくねえ、と心底思ってしまうのもごくごく当然のことであって、気に病むほどのことではない、
必要憂鬱なんだ
ということがわかっただけでも収穫がありました。
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