話す技術は話すことでしか磨きがかからない。ということは周知の事実でありましょう。
でも、その話すという行為の訓練自体をはかどらせるために、又は、親切な人ばかりでない実践の場で容赦なく進んでいく対話に置いてけぼりを食らわずに実りあるものにする為に、惜しみなくできるだけ遠くに投げ捨てなければならない障害物がふたつあるらしいのです。
つまり、スペイン語会話術の上達のコツは、そのふたつのものを捨てることみたいなのですが、そのふたつとはこれ:
●「“自然なスペイン語を話さなければならない”という強迫観念」
●「恥」
捨てよう「“自然なスペイン語を話さなければならない”という強迫観念」。可能なら。
あれ、ついちょっと前に、“黙るよりましだからとにかくなんでもいいから支離滅裂でもいいから話せ”から脱して、自然な感じで論理的に話せるようになりたい、とかさんざん言っておきながら(»ここで)、今度は、自然に論理的に話す、とかいいから、そこにこだわってびびって足がすくんで進まなくなるくらいなら、とにかく通じるものをスッと話そう、不自然でもいいから、などとまるで逆戻り系なことを言い始めたりしてます。
おっと待った、「通じるものをスッと」?て言った?
はい、言いました。つまり、論理的に話すのとまるで逆のことでもないみたいなのです。
決して、話しゃあなんだっていいわけではなく、ここでのキーワードは
「通じるスペイン語を話す」
「それもスッと」
つまり、
です。
決して、論理的に話せるようになることを目指すのをあきらめたのではありません。いや、めざすよ、めざすにはめざすよ、論理的に話せるようになることを。でも、それは最終目的地であって、その過程の中には様々な段階を踏んでいく必要があるわけです。
そして、個人的には、最終目的地の「論理的に話せるようになる」の前段階もしくは同時に磨いていくべき技術として、「通じるスペイン語をスッと話せるようになる」というものがあると考えます。
つまり、決して「自然な論理的なスペイン語を話す」ことなどまじどーでもいい、というわけではなく、その強迫観念にとらわれて精神活動・脳内活動停止してしまってはもともこうもないのではないか、だから、こだわるのもほどほどにしたいものだわ、というところです。
できたら、様々な角度から取り組んでいこうとしているのだな、と思っていただければ幸いです。
で、ところで、
自然なスペイン語ってなに。
まず、いっさい間違いのないもの。
さらには、ネイティブが話すような、不自然さが微塵もなく流暢で滑らかで格好よく柔軟にテンポよく繰り広げられるスペイン語。
あたりでしょうか。
憧れます。
自然さ・流暢さ・なめらかさ・柔軟さ・粋な感じ・しゃれた言い回し・エッジの効いた切り込み・テンポよい調子・・・♥
で、なんで捨てたほうがいいのか?
¡ojo!ちなみにそんな「自然なスペイン語」へのひそかな憧れ自体は捨てる必要はありません。目指し続ければ50年後ぐらいには到達できているかもしれません。
あくまで捨てるべきは、その強迫観念です。
で、なんにせよ、すでに“~という強迫観念”と、強迫観念、と言ってしまっている時点で、捨てるべきもの、と決めつけているわけなんですが、まあ、捨てないと精神的活動が束縛され日々の基本的な人間活動にも支障をきたす、というのが、強迫観念というものの本質です。基本、考えまいとしても強くこころにまとわりついて離れない不安・不快な考え、であります(辞書より)。
そして、この強迫観念は、健全な会話技術の上達を阻むものであります。
いちノンネイティブが、現段階ではいくら考えたって望んだって無理な「自然なスペイン語」を話そうとするあまり、会話という瞬間勝負の舞台でいろいろ考えてしまい、そして間違いと恥を恐れ心身ともにすくんでしまい、結果何も口から出てこなくなったり、または、発言する機会を逃してしまうことになるからです。
最悪、です。
ということで、こんなに最悪なんだから、捨てたほうがいいみたい。
では、自然なスペイン語、という強迫観念から自由になりましょう。
で、どうやって?
…y, ¿cómo?
まず、そんな間違いのいっさいないネイティブ級の「自然なスペイン語」なんて、現段階ではかえって不自然かつ不可能なものであるという事実を自分に納得させます。
納得したら、さらには、なぜヒトは“自然”“ナチュラル”であることをそんなにも望むのか、を考えてみると話が簡単なような気がします。
答えは色々あるかもしれないのですが、ここでは、多分、多分だけど、
恥をかきたくないから。
過大評価でもいいから少しでも高く評価されたいから。
あたりの人間のサガ系の理由からだと思われます。
ということで、方法は結局ザ・マインドコントロール系又は意識改革系になるのですが、まず:
つまり:
恥をかくことをおそれない
又は
恥を恥とも思わないで行動する。
に限るでしょう~。
恥だ、と意識した途端に、恥ずかしくなるものだから、その恥感知レーダーの敏感さを緩和させていい意味で鈍感になろう、あるいは、寛大になろう、という話です。
そして、プラス欠かせないのは、
です。
具体的には、せめてスペイン語人格(※)のときは、恥も外聞もないフテブテシイ人間になる。徹底的に。つまり、間違いがあって当然、間違いましたがそれがなにか?の姿勢で、勇気をもって大胆に大いに間違いや失敗をおかしていこう、というものです。
でも実際、間違いがあって当然、はその通りだし、その背景には、かの有名な“失敗なくして成功への道はなし”が君臨しています。
間違いや失敗も、単なる“無意味で無駄なもの”ではなく、成功へと続く道中における重要な意味を持つ過程のひとつであって、“このやり方ではうまくいかない”というデータを得るための機会であった、とするもしないもあなた次第、てやつです。
つまり、厚かましく恥知らずな振る舞いをしつつ、実のところ、その瞬間瞬間に着々と確実に成長し続けてしまっているのだよ!!格好いい!!
最後に、
ことも、“自然なスペイン語”の奴隷となっている者には、良い薬になります。
たまたま運よくいい感じに話せて過大評価されたってデンジャラスなだけです。
それに見あった実力がないなら後々期待に応えられずに困るのは他でもない自分だからです。
あーほんとこわい。
まとめ
・・・なんかもうぜんぶ精神論じゃないか(イラッ)、となるのですが、そもそも精神論絡みでないことなんかなにも存在しないのかも、というとこに一旦戻ってみてから再出発すると、うまくマインドコントロールできそうです。
でも、ほんと語学学習ごときで、なんでここまで入り込まないといけないのか、なんでこんなに踏み込まれなければいけないのか、人格操作までしなきゃいけないのかってずっと思い続けてきて、そして今も我慢なりません。
でも、なんか、言語っておおげさでもなんでもなく思いのほか人間活動や精神世界に食い込んでくるものみたいだなあ、と感じることも多く、考えてみれば当然かあ、そしたら、我慢するか語学学習やめるか、の選択になるのかなあ、とあきらめの境地に入りつつもあります。
次回は、なんとでもいえそうな役に立つのか立たないのか曖昧な精神論から脱して、多少は具体的な「自然なスペイン語」から自由になる方法について考察したいと思います。
»『スペイン語会話上達術:「自然なスペイン語」から自由になる:其の二』へ続く