前回の記事で、文法についていろいろと考えを巡らせてみた結果、なぜだか、グワッと基本的なところに立ち戻ってみたくなったので、立ち戻ってみることにします。
文法を学ぶ意味考察
◎文法の勉強=法則・ルールの習得
スペイン語に適用すると、まず:
であります。
そして、その法則やルールや方程式をさんざん習得する目的は:
です。
しかしながら、そのくせ、身に付けた暁に最終的に目指すは、
ようになることです。
・・・なんだか、もはや矛盾してるのかどうかもわからないくらいにこんがらがってしまいました。
だって、個人的には今もしんどいくらいに意識しまくりだし、さんざんそれ学べやそれ使えやとトコトン意識して意識するように仕向けておいときながら今になって、
“実は、あなたが今までさんざん意識してきたのは意識しなくていいようにするためだったのです”
と発表されてもいっこうに腑に落ちません。
でも、この今の意識しまくっている状態からいつかスィーッと抜け出せるそんな素晴らしき解放の日が自分も含めすべての学習者にやって来る可能性がある、ということを意味するのならば、想像しただけで楽そうで嬉しい限りで今からその瞬間が待ちきれません(来ます・・・よね?いつか?)。
そして、腑に落ちようが落ちまいがつまりは、無意識の領域に根付かせるレベルまで昇華させなければいけない、てことで、“スペイン語脳”のコンセプトに近いようなことなのかなあ、と。
簡単にいうと、“スペイン語脳”とは、スペイン語ネイティブの思考回路や感覚、を意味するものです(英語脳、というコンセプトの応用)。
そして、自分の母国語日本語を使う時を思い浮かべればわかるように、ネイティブは、一般的に例えば文法を考え考えしながら話したりしないし、他の言語を介したりもしません。求められても説明すらできない文法を日々使いこなしています。いってみれば、感覚的に、母国語を操っています。
ちなみに、このスペイン語脳というものがそもそもノンネイティブに獲得可能なものなのかすら不明です。個人的には、欲しい、欲しいには欲しい、のどから手が出るほど欲しい、というような眩しい高嶺の花的存在であります。
なにはともあれ、考えずに感覚的にスペイン語を使えるレベルまで、文法を消化し昇華させ深いところまで落とし込むべし、ということなのでしょう。
おとなノンネイティブだもの
なにはともあれ、考えずに感覚的にスペイン語を使えるレベルまで、文法を消化し昇華させ深いところまで落とし込むべし、ということなのでしょう。
などと、すぐ上で言いましたが、
いちノンネイティブが、考えずに感覚的にスペイン語を使えるレベルまで、文法を消化し昇華させ深いところまで落とし込む
ためには、なにをどうすればいいのかが疑問どころです。
まず、ネイティブの場合は幼児期において、その法則を”法則としてではなく感覚的に”身に付けることができるけど、それ以外のケースになると、法則を法則として系統立てて学習していかないと身に付きにくい、ということを耳にしたことがあります。
つまり、ある言語の文法を学ぶことがルールを学ぶことであるのならば、そのルールを本能的に感覚的に身に付けることができる幼児期という機会を持つネイティブではない、おとなノンネイティブは、どんなタイミングであれ、ルールを意識的に覚える努力をする必要がある、と考えるのが自然です。
それに考えてみれば、ネイティブですら幼少時代ののち、学校の国語の授業や読書や日々の会話を通して、一生を通じて言語力を磨いていくわけだし。ましてやおとなノンネイティブなら、しゃーないか。という案件なのではないかと個人的には思います。
でも、たまに、“文法なんて1ミリも勉強したことないねッ”、というやり手ツワモノ風ネイティブレベルっぽいノンネイティブ(英語とかの)を見かけます。
まずネット上での自己申告であるゆえ、本当は影で血の滲むような努力をしたのを格好つけて隠している可能性は多いにあるけれど、その可能性を排除してもし本気で言っているとしたら、その“文法なんて1ミリも勉強したことないねッ”は
“文法書なんて1ミリも開いて勉強したことないねッ”
と解釈できるのではないか、と勝手に考えたりしてます。
つまり、文法書を読んだりはしてこなかったけど、自分でも気付かない別の方法で、文法という法則を日々全身全霊に滲み入らせることができる状況にいたというだけの話なのではないか、と勝手に思うわけです。
想像に過ぎないのですが。
ルールは大事
ところで、ルールとは、縛りともなるし同時に守ってくれるものでもあります。ルールがない、ということは単純に自由であることとイコールではなく、その実、自由を脅かすような無秩序で不安定なカオス状態をも生み出します。
言語という領域でも、おおげさでもなんでもなく同じように、ルール大事論が適用できると思われます。ある特定の言語のルール(=文法)を本能的であろうと意識的であろうと習得するということは、同じ言語を使って生きる人々の間で共有できるアイテムを持つ、ということであります。
そして、そのルール共有のおかげで、より通じ合えるゆえよりスムーズな意思疎通ができるので、より平和的な共存が可能になり、そして結果的に、連帯感・絆・仲間意識などが芽生え、また、アイデンティティ・誇り・ナショナリズムなどの感情を支えるものともなります。
確かに、言葉なんかなしでも伝わる状況や感情はあるし、言葉以外にも伝達ツールはたくさん存在するけれど、やっぱり言葉なしの意思疎通に限界があるのは、いままで世界中のどこででも言語が発展してきた過程を見れば明らかです。もちろん言葉にだっておもいっきり限界はあるし言葉だけではカバーできない領域もあるにしても。
とにかく、いろんな面から見ても、言葉のルール:文法を学ぶことの重要性は明らかそうです。
個人的スペイン語ライフに関して言えば、ただでさえ常時カオス状態です。これ以上の無秩序はいりません。
文法知識を深めることぐらいで、アナーキー状態から永遠に脱することができるのなら迷わず惜しまず深めます。でも、そういうわけでもないから困ります。
◎文法を学び始めるタイミング
ところで、ノンネイティブが文法を学び始めるグッドなタイミング、というものがあるそうな。
そして、その最適のタイミングやどの程度まで学ぶかは、結局それぞれ個人個人の目的によるそうな。
つまり、ただ楽しくネイティブと会話できるようになればいいのか、それとも結構深めのところで意思疎通できるようになりたいのか。
不自由なく旅行できるようになりたいのか、それとも現地での生活を不自由なくできるようになりたいのか。
書籍や映像作品などを原語で楽しめるようになりたいのか、それとも、ある特定の分野で例えば学問の世界やビジネスで使いたいのか。
などなどの目的によって違ってくる、と。まあ至極当然のことです。
なんにせよ、とにかくノンネイティブ学習者にとって、文法(法則・ルール・方程式)をどのタイミングで学ぶのが最適か、に関する意見はいくつかあるようです。
少なくとも二通りの推奨される説が存在します。
①ネイティブの言語習得プロセスに近い形で、ノールール状態で初めて、ある程度コミュニケーションとれるようになってから文法の勉強を始めるのがベスト説:
あー。よく耳にしたり自分でも使っていたあれはこういうことだったのか、と納得して吸収したりする飲み込みスピードが断然違ってくるそうな。
②ある程度(初級レベル)ルールを把握することによって基礎力を身に付けた後、普段の生活レベルで使う必要性のある状況に自らを置くことによって、能力が底上げされ飛躍的に伸びる説:
この説によると、せっかく使う必要性のある状況に恵まれても(例:留学)、基礎文法がないがためにその状況を生かし切れず上達できない、という例も多いそうな。
解釈に間違いがなければ、このふたつは、まったく真逆のことを言っています。
そして、どっちの説も正しいような感じがします。どっちが正しいのでしょうか。
その答えの探求は言語学者にでも任せておくとして、唯一私にもわかることは:
もしかして、なんでもいいのでは?
いや、これは、もしかして、じゃなくて、本当になんでもいいのでは?
あたりです。
効率的な物事の順序や最適なタイミング、というものは存在するのかもしれませんが、語学に関しては、そんなにデリケートなもんでもなく、結構、順序やタイミングに限らず方法やかかる時間なども含めて、すべての学習者にとって共通であるべきものは存在せず、個人差があって当然のもの、という感じが個人的にはしています。
例えば②のケースでは、ある一定期間の留学生活が語学学習のすべてではないと思うので、基礎がなく留学時にはうまく上達できなかった学習者は、その後にでも、勉強をやめない限り、その貴重な実体験と反省を原動力として軌道修正できる機会はいくらでもあると思うし、そんな“致命的”なことでもないと他人事ながら勝手に思います。
それに、まさに①の説に基づけば、その後の軌道修正のための文法勉強が、文法を身に付けるためのベストな方法、ぐらいにも思えてきます。
留学からの帰国後の方が、自分なりの修正や工夫を施した上でピンポイントに勉強をすることができ格段に語学力が伸びた、と言う話もよく耳にする話です。これは、目耳に始まり身体全体でのコミュニケーション実体験が基礎力となり、その後の文法の勉強をきっかけに能力が飛躍的に伸びた、というケースだと考えられます。
そして、①のケースに関して言えば、いつまでもノールール状態が通用するわけではなく、なんだ結構いけんじゃん、などと過信してそのまま放っておくと、いつか頭打ちにあう、ということが多いそうです。
実際、こんな風に頭打ち状態をいやでも実感せざるをえない時期が来るからこそ、必要性に迫られて本格的に文法学習を始める学習者も多そうです。
つまり、その時点でさらなる向上心があるなら、どんなタイミングにせよ遅かれ早かれ文法の勉強に取り組まなければいけない、という話のようです。
もちろん、もし最低限のコミュニケーションがとれればいい、掘り下げの必要性感じない、というならそのままノールール状態を貫くも自由です。
ちなみに、①も②も、別に留学が必須、って話ではありません。学んでいる言語を使う必要性や機会は、今の時代、工夫(と時には多少の金)次第で作り出せます。
まあ、実際そんなにたくさんの選択肢は思い浮かばないけど、例えば、インターネット時代のたまものオンライン授業を利用する、無理やりネイティブのリアル友達や恋人やチャッ友作る、とか、あと、いつの時代でも共通する極めつけはこれ、独り言学習(←今後別途掘り下げ予定ありのテーマ)。もしくは、これらのうちいくつかを組み合わせたり。
ところで、文法には、学び始めるタイミングだけではなくて、学び直す又は中級以降のさらなる高度で詳細な文法を学ぶタイミング、というのもあると思います。
個人的なケースだと、現時点で、初級レベルの文法は固まっている気はするのですが、まだ学ぶべきものや固めるべきものが残っている感じはなくなりません。
その気のせいなのか事実なのかわからない心残り的な感じを払拭するためにも、ブラッシュアッププログラム(今の今思いついた個人的なもの)の一環として、私にとっての、中級以降の文法を固めるグッドなタイミングは、まさに今の今だ!!
と思っている次第です。
まとめ
とにかく、なんだかんだで、おとなノンネイティブ学習者にとって、タイミングはどうあれ文法を学ぶことは例外なく大事そうです。
そして、もちろん大事なのだけど、同時に、過度に意識することによってその文法という法則にがんじがらめになってしまうと、あらゆる面で流暢さや柔軟さが失われるというような弊害が生じます。
次回は、そんな『文法にこだわりすぎることで生じる弊害』についての考察をしてみます。
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