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スペイン語漬けライフ:エフェクト各種
ちなみに、はじめにとっても大事なことを言っておくと、
ということで、ここで書くこともたいして大層なものではなく、そんな話か、となるような気軽な内容です。
といいつつ、そんな極上レベルのスペイン語力の高嶺の花っぷりがいちいち眩しくてしょうがない学習者の立場から書いてます。
◎メリット的なこと(前回のおさらい)
メリット的なことは前回書きましたが、念の為振り返りも含めて前回の内容の抜粋部分を再掲します↓↓
“スペイン語漬け”になるとはつまりこういうこと
スペイン語漬けライフにダイブ=
スペイン語を使わざるを得ない状況に自分を放り込む他でもなく、スペイン語力を効率的そして飛躍的に伸ばすために。
“スペイン語漬けライフ”概要
“スペイン語漬けライフ”概要
こんなライフ(イメージ):
- 日常のあらゆる場面にスペイン語が深く入り込んでいる生活
- 寝ても覚めてもスペイン語
- 右を見ても左を見てもスペイン語がうんざりするほど氾濫している環境
- スペイン語なしに回らない日常
- スペイン語を使わざるを得ない日常
- スペイン語を使わなければ何事も進まない日常
- スペイン語の理解不足が日常生活の基本的活動に支障をきたすような日常
- スペイン語の理解不足が最低限の生活基盤をゆるがしかねないような世界での日常
- スペイン語を理解できなければ情報弱者になるような世界での生活
- スペイン語を理解できなければ様々な機会を逃す日常(文化的・経済的・知的活動面)
- スペイン語力を向上させなければ楽しめる娯楽がないような日常
- スペイン語力がなければ解決できない問題が山積みになるような日常
メリット:“スペイン語漬けライフ”自体が秘め持つポテンシャル
“スペイン語漬けライフ”自体が秘め持つポテンシャル
驚異のポテンシャル(=可能性としてもっている力・潜在能力)。
“スペイン語漬けライフ”のポテンシャル
例えば(注・個人的イメージ):
- 計り知れない可能性
- 比類なき有意義さ
- 間違いなく高い学習効率
- 避けようのない必要性
- 半端ない有益さ
- 抗いようのない“いい刺激”
- 逃すわけにはいかないチャンス感
- 有効活用しない手はない容赦なきプレッシャー
- 積極性・自発性・意欲的姿勢・能動的姿勢
- 行動力・チャレンジ精神・トライ感
- 推進力・ばく進ぶり・着実に前に進んでる感
- 建設的で発展的な面
- その経験から得られるであろう飛躍的な成長
- 新しい世界への扉オープン
- 広がる世界
などなど。
一口に言えないから、こんなにずらずら並べ立てたのに、ここで一口で言ってみると、要は、すごくいい、ってことです。
(前回記事より)
てなことで:
一口で言ってみると、要は、すごくいい、ってことです。
と自分でもまとめるしかなかったように、デメリットよりメリットのほうが突出しているように感じます。
スペイン語漬け、つまり、発狂しそうなぐらいにスペイン語まみれになって始めて、開花しはじめる能力ってのもあることでしょう。
今まで見えなかったものが見えはじめるゆえに、自分の強みや弱点も明確になる上に、意欲や必要性も相まって習得プロセスも自然と勢いづいていくことでしょう。
*スペイン語経験値のアップ
ところで、スペイン語ライフの充実は、
スペイン語経験値を上げる
ことにかかってくるのは間違いありません。
そして、スペイン語ライフの充実こそが、スペイン語力を押し上げる力となるように思います。
スペイン語と健やかなる時も病める時も常に共に過ごし、酸いも甘いも含んだ様々な経験を積み重ねることにより、
スペイン語でのリアクション能力や反射神経が肥えていく。
つまり、いわゆる“スペイン語脳”的なもの(※)から、さらには頭の中のスペイン語を発信したり又外界からのスペイン語を受信し処理したりするために必要な、スペイン語耳、スペイン語口、スペイン語目、あたりや、果ては、感情部分をつかさどるスペイン語魂(スペイン語で感じる能力。とする)みたいなものまで、すべてが総合的に肥えていくこととなる。
その結果、スペイン語仕様の感覚が研ぎ澄まされて、物事の微妙なニュアンス・デリケートな側面・隠された意図なども敏感にキャッチできるようになる。それゆえ自分を取り巻くものがクリアに見えるようになって、物事のよい悪いなどを感じ分ける能力も総合的に発達していくことになる。
というような感じで。
(※スペイン語脳:母国語の日本語と同じような当り前さとスムーズさでもって、スペイン語で思考・反応・情報処理することができるような脳、又は、スペイン語ネイティブのものに近い思考回路)
*キモ:スペイン語の世界へ入り浸る
そして、そんなスペイン語経験値は放っておけばひとりでに上がっていく類のものではありません。
結局、効率的で飛躍的なスペイン語経験値アップは、
というところにかかってくると考えられます。
はまればはまるほどに、自然な流れとして、スペイン語の世界、つまり、そこに生きるネイティブの人々、その彼らが日常的に話す言葉としてのスペイン語、彼ら自身が築き上げてきた社会やそこに根付いてきた文化や習慣、共有されている歴史や背景、イデオロギー、価値観、アイデンティティー、そういった諸々といやでも深いところで触れ合うこととなります。
そして、そこに深く入り込んでそして入り浸って馴染むことによって、より深く知ることとなります。
そもそも、自分のスペイン語に深みが出るのは、スペイン語(の世界)自体の奥深さを知ることでスペイン語(の世界)を深く理解したからこそであります。そして、深い真の理解、ってのは、良い面も悪い面も両方知ってこそ可能なことであります。
スペイン語の世界、ていったってなにも全くの異世界ってわけでもなく、ネイティブの人々との交流ひとつとってみても、当然善い人もいれば悪い人もいるし、こちらとしても好き嫌いがあるわけだから、当然ネガティブな感情も生まれてきます。自分にも相手にもお互い様的に。所詮ただの同種の人間と人間の間のことだから。
とにかく、スペイン語を通して色々な経験をして、そこでスペイン語の色んな顔を知り色んな感情を抱き、どんなものであろうが善いものも悪いものも含めたすべての種類のインパクトを消化&吸収してこその、深い真の理解です。
で、次はそろそろ、デメリット的な面も見ていきます。
◎デメリット的なこと:スペイン語とのこじれた関係
そら、こじれることもあります。
だって、スペイン語漬けライフの日常の現実は当然こんなだから↓↓
ミソは、“日常的”にスペイン語まみれ、というところなのですが、それゆえ毎日の全瞬間が、言葉の壁起因の、
- サバイバルテイストあり
- 冷酷非情でハードかつヘビィな現実テイストあり
- フラストレーションが爆発しそうなぎりぎりテイストあり
- 完全にトラウマになりそうな精神的身体的危機テイストあり
- いくら時が流れようがいつでも悲しくなれる悲劇的テイストあり
- 全てを投げ捨てていっそのことドロンしてしまおうかその方がいくらかましクライシスあり
- 砂をかむような空虚テイストあり
- 結構ハートブレイクもあり
というものであり、
簡単にいうと要は、
楽しいことばかりじゃない。ぜんぜん。
というのが現実です。
その結果、こんなカオス状態も待ち受けてる↓↓
幸も不幸も酸いも甘いも歓びも困難も硬も軟も愛着も憎悪も良いも悪いも得も損も安楽も苦痛も好きも嫌いも好機も危機も愉快も不愉快も満足も不満も喜びも悲しみも希望も絶望も情熱も怠惰も慈悲深さも残酷さも謙虚さも慢心も癒しも毒も正気も狂気もワクワクも鬱々もトキメキも嫌悪感もルンルンもイライラもウキウキもムカムカも…
これら全部すべて複雑に絡み合って無秩序この上なくごった混ぜになったデイリーライフの
カオスっぷり
(前回記事より)
とはいえ、実は、こんなカオスやこじれこそが、そのまま世界の興味深い部分であり面白みであり、文化的豊かさに繋がっているもののような気もします。
ところで、スペイン語の世界にはまって入り浸ることがキモ、っぽいと前述したけれど、
まさにそのカオスやこじれっぷりがスパイスとなってか、
その“はまり様”は
健全なもの(=熱中・情熱)から
不健全なもの(=中毒・執着)まで
幅広いものになります。
たとえば、
もうあなたはそこから抜けられない
というような、おどろおどろしいことにもなりかねません。
つまり、
もうあなたなしでは生きていけない
まではいかないにしても、
例えば、
当然、自然発生的に、文句や不満も湯水のように湧き出てくるにしても、
こんな風にいろいろ不満や文句をいったところで、
物理的にも精神的にも
¿じゃあ、スペイン語なしで生きていけるのか?
と自問した時に、
結構答えに困ったり、又は、『いいえ』という答えがすぐ出てくるような
依存状態
です。
以前は『ええ別に問題ないです。なしでも。』ときっぱり即答する自信すらあったのに、いつのまにかこんなことになっちゃって・・・ずいぶん遠くまで来ちゃったな・・・
気付いたら、自分の生活=人生から切り離せない要素になってしまっていた
というような。
いや、これは不健全。
でも、同時に、ともすれば、
デンジャラスゾーンではあるのは確かだけど、もしや、そんな環境に自分をぶち込むことが、スペイン語力上達に理想の状況なんじゃないか、と思う節もあります。
いやー、この関係をこじれてるといわずになんといえばいいのかわかりません。
もう離れられない。か。。。
まさにスペイン語中毒です。
*どれもこれも副作用と思いきや進化の証
ということで、スペイン語漬けライフが充実してくると同時に、いやな事も虫唾が走るようなこともてんこ盛りになってきます。
そして、毎日のことだから逆にスペイン語力アップの成果も目に見える形で実感しにくいゆえ“前進してる気がしねえ”となることも相まって、マイナス面ばかり目についてしまいがちです。
- 見たくないことも見えるようになったり、聞きたくないことも聞こえるようになったり、知らない方が幸せだったという類のことも知ることになったり(細かいニュアンスが理解できるようになったばっかりに)
- 読みとりたくないのに相手の言葉の行間ににじみ出るネガティブな思いや意図が読みとれるようになったり(細かいニュアンスが理解できるようになったばっかりに)
- 自分の言葉の端々に腐った心や捻じ曲がった根性までもが露わになってしまったり(細かいニュアンスが表現できるようになったばっかりに)
という風に。
要は、
未知っぷりが隠してくれていたものが、すべて赤裸々に露わになる。
言葉も含めた文化とか社会背景とかを良く知らないがゆえにいい具合にかかっていたモヤが、ある時点でクッキリスッキリ晴れきってしまって、
すべてがオールクリアに見透かせるようになってしまう。
汚れも腐食部もどす黒いものもすべて。
という現象です。
でも、思い切って力任せにがばっと裏を返せば:
スペイン語の細かいニュアンスが理解・表現できるようになったばっかりに
イコール
スペイン語能力がグングン伸びたばっかりに
付随的に起こってくることばかりであることがわかります。
つまり、視界が曇って良く見えてなかったけど、
実は全部、自分が進化した証以外のなにものでもなかったんだな。
という話で。
これらは、クタクタになるほどにスペイン語に漬かっていると自然と起こる化学反応みたいなもので、スペイン語を極めていく過程において避けては通れない自然現象だといえるとおもうのです。
だから、こんなマイナス面さえも進み続けてきたものだけが味わえる特権だ、としていいはずです。
こんな風に、時には苦痛も伴うさまざまな化学反応を経ることで、
自分のスペイン語が、
発酵しはじめて臭い出す
否
熟成しはじめて芳醇に香り出す
さすがの“うまみ”が出はじめる
そして、
その後、“極上”エクストラ級のスペイン語に育っていく(のかいかないのかの)プロセスをニヤニヤ見守っていくことこそが、
語学における
醍醐味
であるといえると思います。
それでも、こんなこと↓↓が口をついてしまう瞬間がある。
*スペイン語なんて、だいっっっっっきらい
この、スペイン語なんてだいっっっっっきらいシンドロームはたびたび襲ってきます。わたしだけかもしれませんが。
心底、顔も見たくない、に限りなく近い感情を抱いている瞬間に気付くことがあります。
でもこれは、
キライキライも好きのうち。
という、なんとかの裏返し系のはなしで。
まあ、言ってみれば、ティーンかよ。みたいな、思春期の反抗期みたいなもん?
あるいは、全世代共通の、風邪、みたいなものです。
身体(や心)の中の有害な毒をはきだそうとしてるだけです。出してしまえばそれ以上こじれることもありません。たぶん。
あと、この症状は、母国語シックによるもの、ともいえます。つまり、日本語が恋しい、というものなのですが、結局、他に逃げの選択肢(元いた日本語の世界へ帰る)があると知ってるからこそ、いろいろ比較してしまって不満も出てくる、そうして溜まっていったフラストレーションがある瞬間爆発する、という流れの、言ってしまえば甘えからくるやつです。
なので、例えば、誰かがこの毒をはいたその場に第三者として居合わせたとしても、“はいはいわかったわかった、だいっきらいなのね”とやりすごしてもなんら問題ない類のものです。
なんやかんやいっても、好きなくせに、と。
キライキライも好きのうち。
大体、良く知らないものはきらいにもなれません。
未知なものは、ある意味魅力的で好奇心をくすぐられるものなのは確かですが、同時に、親しみも馴染もないものであります。
そばにいすぎて馴染に馴染んでなあなあな間柄になったばっかりに、光も闇も病みも含めたあらゆる側面を見てしまうことになり、つまり深く知ってしまい、その結果情が湧いてしまった、というような対象にだけ抱ける感情であります。
この世界、情が湧いたら終わりです。もう簡単に離れられないし、捨てるとなると申し訳なさすら感じるようになってきます。勝手なもんで、もったいなくもあるし。
たしかに、新鮮味も失せてしまっているかもしれませんが、それも馴染みすぎたからこその副作用みたなもんです。ドキドキもワクワクも刺激ももはや跡形もなく消えてしまったような状態なのは、空気レベルに同化しつつあることの証拠です。
そして、こんな風にキライだと叫ばずにはいられないのは、心がまだ残っている証拠です。なんにせよ、どうあがいても結局憎めないんだから。情、っておそろしい。
さらに、このシンドロームの注目すべきところは、襲われる度ごとに確実に抵抗力がついていく、というところです。
寛大にならなきゃ、こっちがまいってしまうだけ、だからです。
こっちが求めすぎている期待しすぎているだけなのだ、と自覚して、
とにかく投げやりにならず、自分をだましだましであったとしても工夫して、こっちが折れたふりをして、
あっけらかん、と続けていくしかない。
あと、顔も見たくない、のなら、単にしばらく距離を置いて、ほとぼりが冷めるまで実際顔を合わせないようにすればいいだけの話でもあります。
ずっと一緒にいれば喧嘩のひとつもします。親密な証拠です。
…なんの話をしてたか忘れてしまいました。
あ、思い出した。
人間関係の話ではなくて、
スペイン語との付き合い方の話でした。
という。
*スペイン語漬けのリスク
ここまで書いてきたけど、なんやかんやいって結局、デメリット部分すらもメリットの内だ、的な、つまり、デメリットもあるようでないような感じ、な話になってしまってます。
ということから、じゃあ:
どんなに漬かりすぎても漬かりすぎることはありません。
と言い切っても支障ないのではないか、などと考えてたのですが、
…あ、やっぱり、あった、
漬かりすぎの弊害いくつか:
母国語の日本語忘れる、日本語しゃべれなくなる、日本語でのレスポンスのキレが落ちる、つまり、日本語でのコミュニケーションの質がだだ落ちる
あたりです。
まあ、普通に考えて、なにかが伸びればなにかが圧迫されるのは仕方ないので、その時々で優先して重きを置くべきものは何か、を判断そして選択していくだけの話なんですが。
あと、次のがけっこう危険なのですが、全身全霊で漬かりすぎによる、めまいや吐き気そして最悪中の最悪:窒息です。
もうダメ、脳なのか心なのかとにかく自分のそこらへんが拒否、となるともうダメです。心が離れてしまったらなにもかも終わりです(←単なる個人的価値観)。
今やめるなんて今までかけた時間も労力もすごいもったいない、という気持ちを越え、『え?ここまでやって今やめるの?』を含んだ身近な人間や世間の目さえ克服したら、あとはもう真っ逆さまです。いや、逆に、その時その人にとって『やめること』自体がまさに自分を救い上げてくれる唯一のものぐらいのことになっているはずです。そう、もう誰の声も届きません。思考停止、またの名を、固い決意。
つまり、なにが言いたいかと言うと、
たまには息抜きも必要だ
という単純なことです。
息抜きの域を超えて“やめちゃう”に限りなく近いような過剰なことになるのは論外として、
という意味合いでの息抜きは必要不可欠だと個人的には思います。
また“ほぼしない又はしない”放置状態が続くと、せっかく長年かけて育てたさすがの“うまみ”も蒸発して飛んでいくのはあっという間です。待ち受けるは腐敗もしくは蒸発、そして果ては消滅です。
熟成肉と腐りかけの肉の紙一重度(実は良く知らないのだけど)をみてもわかるように、放ったらかして(=やめて)腐らすのは簡単です。そしてやめたら終わりです。
まあ、人が食す熟成肉ほどにデリケートなものでもないにしても、語学においても、上達プロセスの逐一の観察や学習プランの見直しや軌道修正などの定期的でこまめなお手入れは欠かせません。
そしてやめたら終わりです。
あとがき
はまれや、入り浸れや、と言えども
はまればはまるほど、カオス度やこじれ色が濃くなっていく、スペイン語漬けライフ。
そんな環境には、
あくまで、
自分から漬かる
のであって、
溺れてはなりません。
そこには天と地ほどの差があります。
準備運動不足がたたって足がつって溺れる、とか、泳ぎ方を知らないばっかりに溺れる、鼻の奥がつーんとする、そしてどうしようもない、ゴボゴヴォ、とか、考えるだけでこわいです。
でも、溺れるぐらいがちょうどいい、あがいてなんぼ、っていうはなしもあります。
悪習じゃなく、語学勉強の話してるんだから。
でも、なんにせよ、自分のコントロール可能な範囲でやるに越したことはありません。
自分のさじ加減で、“もうちょっと漬かっとこ”なり“一旦引き揚げ”なりやっていくのが理想です。
でも、たまに準備運動不足もものともせず泳ぎ方も知らないのに、“溺れて足掻いてなんぼだろ”といわんばかりに“溺れる覚悟で”飛び込む無謀な勇者がいますが、ばっかだなあと思う反面、実は、かっこいい、しびれる、と思ったりもします。
まあ、溺れても、そこからどう足掻くか、だから、巧みな足掻きで最終的に浮上できればそれはそれでいいだけの話だから。
つづく。
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