飲み込まれて溺れていろいろ破綻まっしぐら、とか人生が狂わされかねない危うさも孕みながら、同時に、“カオス≒面白味”という大きな力で激しく揺り動かされ揉みに揉まれた結果たくましくなって急成長、という展望も持ち合わせる“スペイン語漬けライフ”。
つまり、必ずしもハッピーエンドが待ち受けているとは限らないにしても、なんやかんやいっても結局のところメリットの方が突出してしまう“スペイン語漬けライフ”。
今回は、そんな“スペイン語漬けライフ”における心得的なことについてです。
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スペイン語漬けライフの心得的なこと
今までのところ、デメリットっぽいことも書いてきたけど、結局、メリットを引き立たせるためのものにすぎなかったり又は避けようのない副作用的なものだったりで、これといったデメリットというデメリットもなく、デメリットあるようなないようなという感じでした。
でも、なにかしら賛否両論的要素なり反対意見なり注意点なりそういうものはあるだろうよ、という目線からさらに調べをすすめていくと、こういう警告的意見にぶち当たりました。
◎スペイン語漬け効果の過信・盲信にご用心
この警告は
“〇〇語漬け”が語学力上達の近道であるという説は
根拠のない迷信に近い
と、ぶった切る視点がベースになっているようです。
その意味するところをよく見てみたいと思います。
まず、よくよく見ると、この意見の背景には、
〇〇語漬け=海外留学やその言語を母語とする国に行って暮らす
という定義があるようでした。
つまり、“物理的に”日本列島の外に出て、海を“物理的に”飛行機か船で渡って、習得したい言語のネイティブスピーカーが住み着く土地に実際に降り立ち、そこの生活に深く入り込んで暮らすことやそこで学ぶということだけを唯一“〇〇語漬け”と呼ぶ場合に限っての:
“根拠のない迷信に近い”
みたいなのです。
ということを前提に、この“漬け効果の盲信”に警告を発する派の言い分を要約するとこうです(スペイン語バージョン)↓↓
- 誰でも海外に行けばそれだけでスペイン語ができるようになるなんてありえない。
- 海外に住んでもダメな人ダメ、スペイン語をモノにできない人はできない。
目的意識
と
自発性や自主性
と
基礎
がない大人ノンネイティブはね。
鮮度と柔軟性と吸収力が天然級に半端ない赤ん坊じゃないんだし。なにかと知恵のついた大人には大人の身に付け方がある。
- 結局、目的意識(行動の目的に対する明確な自覚)がないと流される。どこでなにをしようと。
- 他からの強制ではなく、自らの意思を起点とし自然発生的な向上心を原動力として行われること以外に、成し遂げられるものなんてなにもない。
- 誰か助けてくれないかなあ、誰かいい流れ作ってくれないかなあ、というような他力本願の姿勢や、易きに流れる自分の性質を周りの環境のせいにして正当化や責任転嫁しようとする姿勢では、どこへもたどり着けない。
- そもそも、目的意識・自発性・自主性なくして、忍耐とエネルギーが必要不可欠な長期戦に立ち向かえっこない。
- 大人の場合、基礎を無視しての上達はいくら漬かろうが起こらない。ある程度までは行けても早々に伸びの頭打ちをくらうこと必須。
ということで、
つまり、この論は、別に“〇〇語漬けライフ”を全否定しているわけでは全くなく、
というアドバイスにも取れます。
そして、こんなことも↓↓
大人のケースでいうと、
スペイン語漬けライフの恩恵を余すことなく受けることができるのは:
基礎があって、あと足りないのは「慣れ」だけ、という人
つまり、
漬かるタイミングが大事。
タイミングを間違えれば、どんなに揉まれようが出る味も出ない。
っていうことなのだと解釈できます。
要は、
行動力は大事だけど
考えなしの行動はどうかと思う
的な話なのだと思います。
ちなみに、個人的意見としては、自発性や自主性や目的意識不足の致命的度には異論はないですが、基礎がないとアウト、ってところは、どうかなあ、大人の場合でも人と状況とやり方と考え方によりそうだなあ、一概に言えなさそうよなあ、って思ったりします。
例えば、基礎不足起因のフラストレーション込みの経験そのものが、帰国後の巻き返し勉強の火種になったりすることもあるだろうし。
あれ、ちょっとまった、結局、基礎不足がフラストレーション生んでるのね、となるけど突き詰めると、その人は、“よく言われること”として耳にしたからではなく、身を以て“基礎めっちゃ大事”を実感したからこそ、その後めっちゃ勉強せずにはいられない状態になってその結果そこから飛躍的に伸びることになるんです。にがかろうが経験がモノをいうパターンです。
つまり、留学ってったって、短期だろうが長期だろうが期間限定のものであれば、別にそこでの勉強ですべてが決まる、というような決定的で致命的で最終的なもんでもなんでもなく、もし望むなら一生かけて磨き続ける類のものであると考えられる外国語学習のプロセスにおける、単なるひとつの過程、単なるひとつの経験、なのだといえると思います。
ただ、ここで決めてやる、という気合を入れて取り組むぐらいがちょうどいい、のかもしれないと思う節はあります。
◎多様化された“スペイン語漬け環境”をありがたく有効活用する
ところで、前述の論の突っ込みどころとしては、やっぱり、この定義でしょう。
〇〇語漬け=海外留学やその言語を母語とする国に行って暮らす
言い換えると、
効率的な語学力向上のために〇〇語漬けになる唯一の方法は、日本を出て現地に住むこと
という決め付けです。
とはいえ、“漬け環境”の選択肢の中のひとつとしては間違ったものなわけでもないし、さらにいえば、実際、「語学力上達の一番手っ取り早い方法は海外へ行く」や「〇〇語まみれといえば海外留学」というような認識は、世間一般に結構深く根付いたものであるし、今でもそういう考えの人がたくさんいるのは確かだと思われます。
個人的にも、たしかに“スペイン語が現地語として話される地で暮らす(例:留学、海外で働く、単に住む)”がベストオブベストなのかもしれない、と思わないといえば嘘になります。
ただし、自分でイニシアティブを取ってちゃんと最適な環境に入り浸ることができる場合に限って相乗効果が期待できる、それも他のどの方法よりも効率的に、という面において。
しかしながら、「唯一の方法」ではありません。
しかも、周りを見渡してみると(大人のケース限定)、現地で長い間暮らしたからと言って、必ずしも皆が皆同じように語学力の飛躍的な伸びが見られるのかといえばそうでもないみたいだし。
例えば、現地に10年住んでても、確かにペラペラ風なんだけど、文法がへんてこなままだから言葉の羅列にしかなってなくて、結局、ネイティブからしたら“カタコト”の域を出ないものでしかない、というようなケースから、日常生活が回るに必要最低限の言葉以外は全然しゃべれないケースまで色々。
でもこれはすべて、その人なりの“必要性”の問題なのであって、その語学力レベルで“必要性”が満たされていればそれでいいのだから、他人がとやかくいう話ではありません。
まあ、だからこそ“目的意識”ってもんが鍵になってくるわけなんですが。結局、各自で持つ“目的”が“必要性”の内容を決めてくると思うからです。
話が逸れましたが、とにかく、やっぱり、発達したインターネット技術や通信手段・アプリケーションなどの多様化・効率化の恩恵も影響も存分に受けてグローバル化された現代の世界においては、最早そもそもこの
〇〇語漬け=海外留学やその言語を母語とする国に行って暮らす
という定義自体が古くて偏ったもの、と言えると思います。
誰が何というと、時代は変わった。んです。
まあ言ってみれば、以前は“外国に住む”一辺倒だった“漬け環境”が、単に時代の変化に伴って多様化した結果、その選択肢が増えたというだけの話ではあるのですが。
すなわち、
一概にどっちがいい、ってわけでもないし、
結局、大人だから、自分の性質や好みや都合やタイミングに合わせて、が前提となるわけだけど、
それでも
リアル漬け(現地で暮らす、現地で学ぶ)
or
バーチャル漬け(ネットを駆使した学習:どこに住んでても可能)
が選べるようになったわけです。
ありがたいことに。
または、この二つ両方の組み合わせもありでしょう。
どちらでも、自分の都合や好みに合わせて、
最大限に有効活用しない手はありません。
せっかくだし。
◎留学に近い環境は自分で作れる:金ないから留学できないし、と悲観的になることもない
まず、
“インターネットに接続されたデジタル端末”と“意思や意欲”さえあれば即日実行可能な
IT時代の申し子“バーチャルスペイン語漬け”は、
次に、住み慣れた環境を離れずにできる
わけです。
まあ、昔からやる気次第で可能だっただろうけど、今は、テクノロジーのおかけで、労力的な面でも経済的な面でも効率の面でも
そして時間的空間的融通面でも
さらに簡単にそして楽にその環境を作ることができるのは確かです。
有料無料にかかわらずオンライン上でアクセス可能な学習に役立つ情報も素材も先人の知恵的なこともありすぎて逆に困るぐらいにたくさん溢れてるし、語学アプリケーションも豊富だし、ネイティブとのコンタクトの機会も作る気さえあればオンライン上でいくらでも簡単に作れるし、オンライン授業もあるし、スペイン語原語の本もオンライン上で入手できるし・・・
あと、さらにいえば、この“バーチャル漬け”は、スペイン語が母語として話される国に住まずしてスペイン語漬けになる、というコンセプトなので、必ずしも母国・日本である必要もありません。例えば、フランスでスペイン語を学ぶ、とかも、ネット環境があって『じぶんちでスペイン語漬け』が可能なら同じことです。
これを
『どこでもスペイン語漬け』
と勝手に名付けます。
場所を選ばないので一番理想的です。
とにかく、“リアル漬け”であろうが“バーチャル漬け”であろうが、やり方次第でメキメキ能力アップできるかもしれない方法の選択肢や機会自体が増えたというところは、いち語学学習者からすると非常にラッキーで喜ばしい点であるといえると思います。
いってみれば、以前は考えられなかったことなのかもしれません。10年前とか20年前とかに四苦八苦していた外国語学習者、特に独学者からは、
いいよなあ~、恵まれてるよなあ~、うらやましいなあ~、
というため息すら聞こえてきそうです。いや、はっきり聞こえてきてます。
でも、実際、心底恵まれた環境なのだと思います。
というわけで、こんな時代に生れ落ちたことのありがたさを噛みしめて、現時点で選択可能なものはすべて最大限有効活用しない手はないと思うわけです。
つまり、そう、金ないから留学できないし、だからムリだし、などと悲観的そして消極的になってる場合ではないのです。
というか、“だからムリだし”の恰好の言い訳がなくなってしまった、とも言えます。
実は、そこはちょっと痛い。
あとがき
結局、どこにいようと、目的意識持ってるか否か、が鍵になってくるらしい、という話です。
そして、スペイン語漬けライフに関しても、
“漬けライフ環境”に入るまでがいろいろ大変なだけで、一旦漬かっちゃえばもうこっちのもん、楽勝
ということにはけっしてなりえません。
それがどこであろうと、その環境にうまく飛び込めたからといって、これで安心、万事OK、あとは身を任せるのみ、もう何もしなくても自動的に進化
という類のものでもありません。
ふわっと過ごせば、ちゃんとしっかりふわっとしたものしか残らないし、いい加減にやれば、出来上がりもちゃんとしっかりいい加減なものになります。
つまり、
毎日のことだからこそ、そして、長い戦いだからこそ、
普段の何気ない過ごし方が意味をもってきて
そして、その過ごし方が悪ければ、
時の経過とともに
「決定的な差」
が生じてしまう。
ここで、え、誰の何と比べての“差”?となると、
多分、想像上の“いい過ごし方をした自分”と比べて、です。
つまりあれです。
日々の積み重ねが、人を強くもするが、弱くもする。
まあ、“もしあの時もっとうまくやってたら、もっと懸命にやってたら、今頃わたしもっと・・・”などと考えを巡らすことほど非生産的で非建設的で無味乾燥なこともありません。反省のためにはなるとしても、あの時の自分ができることのマックスがあれだったんだ、と認めて見切りをつけて次に行く以外にできることはなさそうです。
でも、逆の高みの立場から、“もしあの時ちょっとでも手を抜いてさぼっていたら、今頃はここ(見晴し最高)にいなかっただろう”とゾクッと身震いする分には、とどのつまり達成感とか自尊心の裏返しだから、別にいいはず。
いやすごく気分いいはず。
そういうことなら、じゃあやっとくかあ。
という気がおきるのをまつ。
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