スペイン語文法②:こだわりすぎは毒である

前回は、文法を学ぶ意味やタイミングについて考察をし、なんだかんだで、おとなノンネイティブだもの文法の勉強は大事そう、ということで話を終えました。もちろん、この文法というアカデミックな素晴らしき知識の宝庫にも、浸りすぎると汚染されかねないデンジャラスな側面があります。
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文法にこだわりすぎることで生じる弊害

いろいろありますが、まず、もっともデンジャラスだと個人的に思うし是非避けたいのはこれ

◎文法を意識しすぎて頭固まる口固まる

スペイン語を使う(主に話す書く)段階でよく起こりがちなのは、文法や構文などの知識を過度に意識することによってその文法という法則にがんじがらめになってしまい、あらゆる面で流暢さや柔軟さや臨機応変さが失われる、そして最悪思考停止頭真っ白、というあれです。

例えば個人的には、

“的を得た”ことを“エッジの効いたいい感じの文法や構文を使って”言いたい気持ちが強すぎて、結果、頭も口も手も固まってしまう

なんてことは、スペイン語ライフにおいては日常茶飯事です。

なんかの呪いなのか、と思うことすらあるぐらいに固まります。例えどんなに日々の口周りの筋トレのおかげで正にその瞬間筋肉がいい具合にほぐれていたとしても起こります。肉体的な問題でなく精神からくるものだからです。そしてこれは、実践の場か勉学時かに関係なく起こることです。

もう少し言えば、間違えて恥かきたくないゆえに、さらには、格好つけたいがために、極めつけは、褒めてほしいがために、陥る深い穴です。原因は明らかです。求めすぎたんです。

この現象が、独りで書いている最中に起こる分には、書くスピードが落ちたり時間がかかったりして自分がうぅぅぅとなるぐらいで済ませるし、それに後から巻き返しをはかれる場合もあると思うのでたいしたことではないかもしれません。

でも、結構瞬間瞬間でたとこ勝負である、話す、という行為の最中、特に聴き手や対話相手がいる場合に起こった時にゃあ、もう、まず話や会話の流れはブツリと断ち切られるわ、コミュニケーションはストップするわ停滞するわで、結果相手を、どした?内気か?と戸惑わせたり、最悪、で?で?とイラつかせたりすることになります。

百歩譲って、それは発展途上の学習者にとったら仕方ないことだということにして別に気にしないとして(大胆)、勝手な話、とにかくたくさん書いたり話したりする練習の必要がある学習者の立場から見ると、学習スピードの低下や学習プロセスの停滞などをも意味し、フラストレーションの根元となります。

でも、よく考えてみれば、日本語ライフですらそういう現象が起こることがあるのだから、学び段階真っ最中の外国語ライフともなれば、別にとりたててとがめるようなことではないのかもしれません。

実際、これはなにも自分だけでなく他の言語学習者にもよく起こっている現象のようです。自分特有の求めすぎ病ではないみたいなので安心です。一般的な人間の性質として説明のつく範囲内のこと、ということみたいです。

なんなら、この学習スピードの低下や学習プロセスの停滞から感じるフラストレーションをも、上達プロセスのひとつなのだと無理やり決めつけるのも手です。言ったもん勝ちです。

つまり、まそりゃある程度は意識して文法を使っていくことで身に付いていく部分もあるのだから意識すること自体は決して悪いことではないけど、ポイントは“過度に”意識するのはまずい、思考停止してしまうほどに“過度に”、というところなのでしょう。

そして、最後に、忘れてはならないのが、もちろんこんな風に文法にがんじがらめになるのはまずいけど、文法という法則を知らなければ、結局どこにもたどり着けず、さらなるカオス状態に陥る可能性大、ということです。

◎スペイン語能力バランス偏る

次に、文法勉強ばかりに没頭して他の実践的な能力が伸び悩むこととなりトータルで見て能力バランスが偏る、というのがあります。

文法を学ぶということは、新たなる法則・規則・的確な表現方法などの知識を得たり、心許無い曖昧な箇所を確かなものにしたりする語学力向上のための作業です。

なので、身に付くのに時間や手間はかかったとしても、個人的には実は楽しいぐらいなのだけど、過度に嵌ってしまうとハッときづいた時には、話せない無駄にマニアになってしまっている、ということが起こりえます。

でも、まあ、話せないのは困るけど無駄にマニアなレベルに憧れるぐらいの自分としては、気付いた時点で軌道修正をかければいいだけの話だと思ったりもします。

もちろん、バランスよく能力向上していくのが理想だけど、器用さや計画の緻密さなどが必要になってくるし、そんな言うほど簡単なものではないと思われます。

それに、それぞれの能力はまったく別のかけ離れたものではなく、複雑に絡み合って相互作用を及ぼし合う関係にあるので、勉強してるだけましだ、程度に済ませられる範囲内です。

それでも、こんなことも起こる↓

◎知らず知らず古風

ネイティブに、・・・中世かよ、と言われたことがありますか?_私はありますよ。

そう、文法に限ったことではないですがアカデミックな知識にとらわれすぎるとこんなことが起きるのです。

よく作文などで言われます。

『・・・中世かよ』

と。他には、

『言い回しが外国人すぎ』

もあります。

まあ本当に外国人だから仕方ないけど。でも、もうここまではっきり言われると笑えます。もちろん相手のネイティブも素直におかしいようで笑ってます。

あとは、言い回し以外にも、語順とか使う構文に関しても言われます。

こっちが小難しいけどいい感じの構文使ってやった、と思っていても、相手の眉間にはしわがよっていることがあります。理解しようとしてくれているだけでありがたいけど、“なんてなんて?ごめん、迷子なったわ、もう一回言って”と言われて気付きます。

あ~、こうなるのか、と。

ここ気をつけないと。もしかして、中世風のお手紙を、カジュアルな間柄のお友達に送ってしまっていて苦笑されているかもしれません。

ここはやっぱり、机上の勉強だけでは限界があって、現地に入り込んで日々生活しないと身に付かない感覚なのではないかとも思います。なるほど当然ながら、文法的には1ミリも間違ってない、けど、実生活の日常生活レベルで使わないものがたくさんあるわけです。

日本語でも同じです。例えば、~でござる。とか、正しい日本語だし、実際に使われてた時代もあったし、現代で使っても古風すぎるくらいで笑われはしても通じます。だけど、冗談で使う分にはただの日本語マニアだと思われるぐらいで悪い印象はありませんが、冗談でないなら、勉強しな、と思われて終わりでしょう。

とにかく、個人的体験として、文法だけに限らず検定試験などのお堅い勉強にしばらくの間没頭していると、マニアックとまではいかなくても、ある程度結構なレベルで:

アカデミックだったりサイエンティフィックだったりフィロソフィックだったりスピリチュアルだったりサイコロジガルだったりプロフェッショナルだったりパブリックだったりポリティカルだったりセンセーショナルだったりドラマティックだったりスキャンダラスだったりロマンティックだったりピースフルだったりエコロジカルだったりイノベーションものやディスカバリーものだったりする、

いうなれば

日常的な事柄からかけ離れた非日常的で自分という存在より大きなワールドワイドな人類共通のテーマや話題にいつも触れているような世界に浸りっきりの比較的ヘビーな日々となるので、普段の例えば『昨日なにした?』レベルの軽い話題やインフォーマルでカジュアルでフランクな会話に対応できなくなったりします。

決して、意識高い知的な感じになっているわけでなく、単に、頭でっかちになりさがってしまったゆえに思考の柔軟性や臨機応変さ流暢さなどの能力が低下してしまっている、という方が言い当てている気がします。

かと思いきや、日本語でなら『どーでもええわ』となるような天気の話などを、スペイン語では普通にしている自分がいたりします。つまり、いろんな自分に出会えます。ほぅ、スペイン語人格のときは天気の話にも花を咲かせることができるのだな、と、知れます。

また、確かに以前は、大は小を兼ねる、的な考えでもって、アカデミックなところをカバーしとけば、カジュアル路線は余裕だろう、と信じ込んでいる節が個人的にはあったのですが、実際は、このふたつは別の領域のものみたいで、つまりは、両方ともそれぞれに磨いていかないといけないものなのではないかと今は思います。

結局思うに、社会的テーマであろうが世間話であろうが、ヘビーもライトもなく、

普段話さない内容のことは話せない

ということなのでしょう。

◎文法書は日本語のものかスペイン語のものか

ところで、以前にも文法関連の記事↓で触れたことがあるのですが、

たたずんでいます。 果てしないから。 いつまでもたっても知らないことがなくならないし(事実)、いつまでたっても基礎ががっちり固まる...

文法書は日本語のものかスペイン語のものか

つまりは

スペイン語はスペイン語で学ぶべきか母国語の日本語を介して学ぶべきか

という論争が語学界で巻き起こっているのをよく見かけます(注:ネット上そして英語学習界)。

で、個人的には無責任を承知で言わせてもらえば、

どっちでもなんでもいいのではないか

と思います。

ただし、比較的大きめの人間になってから学ぶノンネイティブに限っては。

まあ、ここでは、自分自身が、脳内で日本語能とスペイン語脳が共存しているらしいバイリンガル(この定義も調べれば調べるほどはっきりしないのだけど)でもなんでもない、つまりしっかり日本語の概念かぶれの日本育ち純ノンネイティブ学習者なので、これ以外のことは未知の領域で書けないだけなのだけど。

そんな、おとなノンネイティブの学習過程においては、否定的にとらえられがちな外国語学習への母国語介入も、学習自体の効率や速度の観点から見れば、おおいにプラス要素となるといえると思います。

日本語を橋渡しとして使えば、文法ルールに関する複雑な説明もさっと理解でき、微妙なニュアンスも素早く掴めるので、学習自体がスムーズに進められるし、さらには、通訳や翻訳作業のように日本語と関連付けて学ぶことが有利に働くケースもあるはずです。

それに、日本語で詳細に緻密に書かれた文法書などを見ていると眺めているだけで(読め)、こんなにまで熱を入れて没頭して日本語とスペイン語の関係性を研究した言語マニア専門家おたくがいるんだ・・・と実感できて、勝手に独りでなんか胸が熱くなる、というか、頭がぐるぐるしてくる、というか。

などと、いいつつも、やはり、スペイン語をスペイン語だけで、というスペイン語まみれの世界も捨てがたいのです。そのまみれ効果も認めざるをえません。やっぱり、スペイン語でスペイン語を学んでいると、逆にスッと意味が掴めたりすることがあったりもするし、効率よく数珠繋がりに類似語や関連語彙やコンセプトが覚えられたりもするし。

そして、なにより、このスペイン語まみれ期間がしばらく続くと、スペイン語で考えたり表現したりすること自体がスムーズになってきます。

単なる、慣れとか習慣の結果ではあるのですが、結局、実際良く言われるように、母国語の日本語を媒介させることなく、スペイン語をスペイン語のまま理解する、ようなスペイン語専用思考回路確立のための近道であるのは間違いないのかもしれません。

ただ日本語力が明らかに落ちて話せなくなったりするけど・・・。そこは、学習者にとったら、その偏りこそが功を奏する秘訣だったりする場合の方が多いだろうけど。

個人的にも、そんな風に時期によっては(例:気分又は検定試験前後)偏ったりすることもあるけど、日本語と絡めて勉強するのも興味深いところがあると感じるので、可能な限り両方のスタイルを使うようにするためにケースバイケースで使い分けています。

例えば、調べたいコンセプトがあるとして、時間がなくてささっと済ませたい時なんかは日本語で書かれたものをざざっと読んで可能な限り短時間で意味を把握しようとするし、また、余裕があるときは、そのコンセプトに関連する語彙や表現なども同時に頭に入れることができるので、スペイン語で書かれたものを読んだりします。

また、実際、何かの意味をつかみたい時、両方向もしくは多方向から攻めるのが最強だと思います。

例えば、日本語であれスペイン語であれ一つの未知単語を調べるときには、日本語でもスペイン語でも調べるし、時には和英・英和・西英・英西の全部に目を通します。そうすることで、スペイン語とか日本語とか区別なく、根本的な言葉力というか表現力というか知識というかそこらへんのざっくりした領域が全体的に充実化するような気が勝手にしています。思い込みかもしれませんが。

そして思うのは、結局やっぱり、多分いつまでたっても、母国語である日本語での方が同じ時間内にキャッチできる情報量は多いままだと思うので、うまく使い分けて組み合わせていくのが賢明なような気がします。

それに、せっかくの母国語の知識なんだし。なにも意地になってネイティブやバイリンガルと張り合う必要はないと個人的には思います。

まとめ

文法の勉強は大事だけど、偏らない程度にほどほどに。

でも、文法を軽視したらある時点で成長止まるかも。

いつまでも単語だけそれっぽく並べるスタイルでは限界が訪れるかも。

でも、文法も使えるようになってこそ、で、そこが難しい。

という、結局、

要はバランス。

部門のお話でした。

そして、確かに、文法の勉強自体に着手するまでと軌道に乗るまでがひと踏ん張りいるから面倒だったりするし、わざわざ時間とるのにも今の今は他のことにその時間とエネルギーを回した方がいいのでは?という類の疑問がとめどなく湧き出てきます。

なんにせよそんな疑問は絶えることはないだろうから、もし自分なりに文法強化の必要性を感じているなら自分なりのグッドタイミングを自分なりに見極めればいいだけだと思います。

見極める、なんていうと、最終ジャッジ的だけど、ここのミソは、自分なりの判断でいい、というところです。つまり、感覚的に今じゃないと思うならそれを信じてみてもいいだろうし、仮にあとあとそれが判断ミスだったっぽいとわかったのなら、その時点から開始したって遅くないだろうし。

そもそも後戻りできないんだから後悔しても無意味だし。

独学の世界なんて、他の学習者の傾向を参考にすることはあっても、最終的には所詮、自分なりの決断続きだし、そもそもそれ以外の分岐点など存在しないし、それに、いったい誰の何と比較して、遅い早い、っていってんだ、っていう世界だし。

これ全部、自分に言い聞かせるために言ってます。

前回記事

前回の記事で、文法についていろいろと考えを巡らせてみた結果、なぜだか、グワッと基本的なところに立ち戻ってみたくなったので、立ち戻ってみる...


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コメント

  1. わさび より:

    全2回(かどうかまだわかりませんが)興味深く読ませて頂きました。たかが文法されど文法ですね。確かにこだわりすぎは良くないですが、全く知らないのも話し書きする時に恥ずかしい。日本語をすごく話せる風な外国人でいまいち何を言ってるかわからない時は文法勉強してないのかな、なんて思います。
    やはり上手な人の裏には努力が隠れていますね。
    別件ですが、掲示板上部のDELEまであと◯◯日!!の数字が毎日減っていくのに怯えています。

    • adicto_1 adicto_1 より:

      すみません、怯えさせてしまってますか。うふふ、それが狙いです。自分自身が追い詰められてる風かもしだしたいがために始めたカウントダウンです。
      ところで確かに、日本語ペラペラ風支離滅裂の外国人いますね。我ながらスペイン語バージョンの自分も近いにおいを発している気がする・・・ペラペラでもないんだけど・・・。文法知識があるからといって論理的に表現できるという単純なものでもないけど、それでも文法知識を持つ醍醐味は結局自分が楽になれる、ってとこですよね。